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2016年8月30日 (火)

◆ 「まず、根性論を捨てる」(転載)

日本柔道復活を成し遂げた、井上康生流「大改革」そのすべて(転載)

惨敗のロンドンから、躍進のリオへ
「大奮闘」と言ってもいい記録をリオ五輪で残した日本選手団。その躍進を支えたのは、柔道だった。

4年前は金メダルゼロに終わった日本柔道がなぜ復活を遂げたのか。「井上改革」その全容について、過去五度オリンピックを現地で取材している、ノンフィクションライターの柳川悠二氏が解説する。

ブラジル・リオデジャネイロの地で、日本選手団は、史上最多だった2004年アテネ五輪の38個を抜く41個(金12、銀8、銅21)のメダルを獲得した。4年後の地元開催に向け、日本のスポーツ界全体が活気づく結果だろう。中でもかつて〝お家芸〟だった男子柔道が復活を果たしたことが、この快進撃を支えた。

12年ロンドン五輪で、男子柔道は史上初めて金メダルがゼロに終わり、母国としての威信は失われた。立て直しを敢行したのはロンドン惨敗の責任を取る形で辞任した篠原信一氏(現タレント)に代わって監督に就任した、井上康生である。

筆者は4年前、前監督である篠原信一氏や、当時、強化委員長を務めていた吉村和郎氏の横暴を度々指摘した。強化合宿をすればやたらと量をこなさせる前時代的な指導は、問題をはらんでいた。

気合いだ根性だ、とやたら精神論をぶち、午前中は走り込みや寝業、午後は乱取りと単純で画一的な練習を選手に課していた。以前のように階級別に担当コーチが決まっていたわけではないために、選手は誰を頼ればいいのか混乱していた。

首脳陣はケガを抱えた選手にも合宿への参加を強制し、国内大会への出場を義務づけ、選手が拒否すれば「代表選手から外す」というような脅しめいた言葉を投げかけた。13年2月に、女子の複数選手によってパワハラ告発がなされたが、そういう体質は男子にも根強くあった。

当時、特別コーチとして帯同していた井上は選手や所属先の声に耳を傾け、首脳陣に対し「担当コーチ制の復活」などを訴えたが、採用されず。首脳陣と選手の板挟みに遭っていた。

いわば惨敗すべくして金メダルゼロに終わったのがロンドンだった。帰国後、篠原氏は引責辞任し、吉村氏はしばらく強化委員長に居座ったが、助成金の流用疑惑によって失脚。不祥事を期に体制がまるっと一新されたことは、新たに監督に就任した井上にはむしろ幸いしたかもしれない。井上は次々と改革を断行していく。

テーマを絞る合宿、公平な選考
まずは強化合宿改革だ。合宿ごとに「技術合宿」「追い込み合宿」などとテーマを絞り、強化の目的をはっきりさせた。そして念願の担当コーチ制を復活させた。各階級の担当コーチは全日本強化合宿だけでなく、所属先での練習にも顔を出し、選手のコンディションを把握した。結果、選手の所属先とも良好な関係が築け、全日本チームと所属先とが連携した動きが生まれ、さらに外国勢の研究も二人三脚で行うようになった。

またオーバーワークを避けるために、初秋に行われる世界選手権に出場した選手には、初冬にある講道館杯の欠場を許可した。代表を争う選手達が「公平」に思うような横一線の競争を課し、そうして選ばれたのが今回の男子代表7人だった。

井上康生の柔道を初めて目にしたのは、彼が小学5年生の頃だった。当時から既に「山下(泰裕)二世」と騒がれ、小学生のタイトルを総なめにしていた。私事で恐縮だが、宮崎の片田舎の中学校でたいして強くもない柔道家だった私は、世界に羽ばたいていく彼を追うべく、スポーツ取材を生業とするようになったも同然だった。

高校から東海大相模に柔道留学した井上は、東海大4年時に出場したシドニー五輪において、オール一本勝ちで金メダルを獲得した。決勝の内股は、五輪史上、もっとも美しく、豪快な〝一本〟だった。表彰台では、前年に亡くなった母の遺影を掲げた。

日本選手団の主将として、金メダルが確実視されたアテネでは、五輪の魔物が彼を襲った。2度目の大舞台にもかかわらず、なぜか前夜眠ることができず、アテネの畳の上では憔悴した井上の姿があった。準々決勝で敗退し、敗者復活戦でも一本負けを喫した。

08年に井上は引退し、海外留学を経てコーチに就任。小学生から見続けてきた井上が今では監督なのだから、なんとも隔世の感がある。シドニーから数えてリオが5回目の五輪取材となったが、現役時代に栄光と挫折、歓喜と失望という両極端を五輪で味わった井上ほど、日本代表を率いるのにふさわしい監督はいないかもしれない。

選手を誇りに思う
あれは柔道競技初日の日。井上の大学の後輩で、金メダルの期待もあった60㌔級の高藤直寿が銅メダルに終わった。五輪の現場にいると日本の反応がなかなか伝わってこないものだが、金メダルを獲れずに「申し訳ない」と謝った柔道家の発言が話題になっていたという。

しかし、「金メダル以外はメダルにあらず」は、誰より五輪に挑む日本の柔道家が自覚していること。だからこそ、金メダルという唯一の目標が果たせなかった高藤を井上は労い、誰より銅メダルを讃えた。

「彼は私に、『金メダルの第1号をプレゼントする』と言ってくれていました。メダルの色は違えども、私にとってメダル第1号をプレゼントしてくれた。誇りに思います」

その言葉に、私は日本の柔道が改革に成功したことを確信した。再び篠原氏の話となるが、彼はロンドン五輪競技初日、銀メダルを獲得した平岡拓晃(60㌔級)が表彰台に上がる時には、既に吉村氏らと共に帰路についていた。どこの世界に、メダルを獲得した選手を放置したまま帰路につく指導者がいるだろうか。

さらに、平岡に対し、「ごくろうさん」の言葉をかけたのは翌朝だった。初日から首脳陣に対する選手の不信感が募っていたロンドンに比べれば、「井上先生のために」と話す高藤の言葉にチームの雰囲気の良さが伝わってきていた。

男子柔道にとって、08年北京五輪の石井慧(100㌔超級)以来の金メダルは3日目、73キ㌔級の大野将平だった。

小内刈り「一本」が炸裂して金メダルを獲得した際、大野はさも勝ったことが当たり前のように黙して、派手に喜ぶことはなかった。

「対人競技なので、相手を敬おうと思っていました。(五輪は)日本の心を見せられる場でもあるので、よく(高ぶる)気持ちを抑えられたと思います」

礼節を重んじながら、最後まで一本を狙い続けていく柔道を貫いた大野と対照的だったのが、5日目に90㌔級に出場したベイカー茉秋だった。試合途中に「有効」を奪うと、残り時間、彼は逃げ回り、試合終了を告げる銅鑼が鳴ると、両手を広げて咆哮した。

「(シドニー五輪における)井上先生の内股のように格好良く終わりたかったんですけど、なかなかできなかったです。でも、金と銀では全然違うということが、すごく分かっていたので、その気持ちがポイントを取ってからの試合運びに出てしまったという感じです(笑)」

東海大4年のベイカーに対し、井上は「俺もシドニーの時は東海大4年だった」と話し、五輪に挑む心構えを伝えていた。憧れの監督と同じ道を歩み、監督を男にしたい――。そんな気持ちにベイカーは溢れていた。ポイント奪ったあと、逃げ回るような柔道になったことに対し、井上も苦笑いだったが、「それもまたベイカーの意地」として咎めることはなかった。

大粒の涙を流して
監督に就任して以来、最大の命題に掲げたのが重量級の再建だった。かつては自身も「重量級で金メダルを獲らなければ、日本柔道の威信は保たれない」という気持ちで五輪に挑んでいた。

100㌔超級の代表が原沢久喜に決まった日、井上は原沢に電話を入れた。

「日本柔道の再建はお前に託したから」

原沢は難敵揃いの100㌔級を勝ち上がり、決勝でロンドン五輪の金メダリストで、世界選手権を通算8度制したテディ・リネール(フランス)と対戦する。JUDO界の〝絶対王者〟として君臨するリネールの巧みで狡猾な柔道に何もできず敗れたものの、東京に向けた試金石となるチャレンジだった。

日本の男子柔道は全階級でメダルを獲得(金2、銀1、銅4)し、復活を遂げた。全種目終了後、井上は報道陣の前で大粒の涙を流した。

「4年前は、屈辱というか、自分の無力さに悔しい思いを持ちながら、涙したことを昨日のように覚えています。今日においては、素晴らしい選手たちと素晴らしいスタッフと、最高の環境で精一杯戦えたことの幸せの涙。(全7階級でメダルを獲得して)歴史に名を刻んだ7人になったのかなと思う。誇りに思います」

井上は、わずか4年で日本男子柔道の立て直しに成功した。選手に寄り添い、選手を信頼し、選手の自主性に任せた指導でお家芸を復活させた。

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